実験工房展

模型/オブジェが面白い。

如何に日常的に模型をぼんやりと見ているのか、まずはそこに気づかされる訳だが、展示が時系列に展開されていく中を進むと、模型→オブジェのシフトが見えてくる。

 

実験工房初期の展示では、舞台セットのための「模型」で、完成予想図的なものではなくて、作り込みの為されていないスタディ的なもの。

模型材料は特別なものではなくて、恐らく当時の日常生活の中でありふれたもの。

間違いなくその模型が媒介となって美術や照明、音楽のメンバーとアイデアを共有し、実際の舞台具体化へと進む足掛かり的に作られたものだろうと想像させられる。

 

それが中期の展示に移ると、模型は「アサヒグラフ」誌に連載されていた独立した「オブジェ」として。

誌面に使われるのは1カットであるのに対して、微妙な形のズレや撮影の方法の違いで表れ方の全く違う写真が何枚も展開。

 

いずれも模型の材料や作り込みの程度は変わらず、未完成的。

しかし、初期のチーム内でのアイデア共有のための(手段としての)模型から、模型自体が(目的物としての)オブジェへの移行していると考えると、舞台というメディアを通さずに未完成的な抽象度の高いコンセプチャルな模型/オブジェをそのまま直截に世に問うという、より「実験」性の高いものへの志向、「実験」性への深化が強まったと言える。

 

前衛的な美術に限らず創作活動において、ある性質を深化をしていくことは簡単なことではない、と思う。

世に問うことを前提とした創作は、常にジャーナリズムに対するニヒルな精神が見え隠れし生まれやすい構造にあり、複数の性質を併せもつ総合性或いは多面性をもつものへ引っ張られて、故に通俗化しがちだ。

 

また、我々の仕事である建築においては、共有性あるいは多面性、そしてそれらを統合する総合性が極めて重要な概念であることは忘れてはいけない。

 

世に問うことを諦めればそれで良い。

しかし、深き可能性への思考実験のない合意形成のための建築は極めて不自由な精神しか宿らないであろう。

 

 

実験工房の「実験」性への深化は、そうした生ぬるい総合性的なものを圧しているよう思え、また、自らの活動において示唆的で、切り開くべき一つの隘路あるように思えたが、果たしてそれにのるかそるか。

 

 

そんな仮説だらけの思考実験?をしたくなる展覧会。

アーカイブとして凄い。

特に大辻清司の仕事により興味が涌いてきた。

ただそれだけではない実験工房を再考する視点や、実験工房ならではの現代美術としての見せ方がもっとあったじゃないの。

と期待していただけに、思う。

 

http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/images/sp00166_ad.pdf